仮面ライダー剣の最終回は自己犠牲ではなく「自己責任」

仮面ライダーシリーズ最高傑作と名高い「仮面ライダー剣(ブレイド)」は、私も「アギト」や「BLACK」と並ぶ最高傑作候補だと思っている。

 

その最終回は

 

友にして最大の敵・相川始(ジョーカー)を封印すれば戦いは終わるはずだった。

しかし剣崎はその方法を取らなかったために世界中に大量にダークローチが溢れ出し、人を襲う。47話で橘が、48話で睦月が敗れ去り剣崎はただ一人ダークローチの大群に立ち向かう。

何の根本的な解決にはならないのに、だ。

最終的に剣崎は始を封印せず、キングフォームをわざと13回以上使い完全にアンデッドと融合、もう一人のジョーカーとなってしまう。

これでバトルファイトは永遠に決着がつかず滅びの日も来ない。

剣崎は友も世界も救うために人の身と日常生活を捨て、怪物として悠久の時を生き続け「運命と戦う」ために日本を去る。

 

というものである。

これを「究極の自己犠牲」として語る人が多い。

 

だが私はこれに「待った」をかけたいのだ。

 

伝説となったこの最終回だけ見れば自己犠牲に見えるのかもしれない。

 

確かに剣崎は自分の命もかえりみずにアンデッドと戦い、人々の自由を守ってきた。

 

そんな彼にとっての「自由」とは何なのか。

彼は本当に個人の幸せを捨てたのだろうか?

 

答えは「否」である。

 

そもそも剣崎が戦う原動力は「幼少期に火事から家族を救えず一人生き残った無力な自分へのやるせなさ」をバネにした力である。

 

だったら、一人犠牲者が出るたびに、痛みに変えろ。アンデッドなんてやっつけてやるっていう、バネに変えろ。俺たちはそうやって生きていくしかないんだ。辛いこと、悲しいこと、全部!バネにして生きてくしかないんだ。それが本当の責任だと、俺は思う。 

仮面ライダー剣」第6話より

 

 

個人的に私は剣崎が

「誰かを救う事に幸せを感じる聖人」よりも

 

戦えない大勢の誰かを守るために体を張って戦っていないと精神の均衡が取れなくなる人

人助けをする事で欠けた心を満たす人

に見えてならないのだ。

 

 

2017年の「仮面ライダービルド」第3話でも主人公の桐生戦兎が

「誰かを助けると心の底から嬉しくなってクシャッとなるんだよ、俺の顔」

というセリフを残している。彼も人助けをする事で空虚な心を埋めていたのだ。

だから「ビルド」初期を視聴している時は「剣」と似たような感覚に懐かしさを感じていた。

 

尤も、戦兎は結局エボルトのおもちゃに過ぎず、上辺だけでヒーローとしては剣崎の足元にも及ばない存在であったが、それでも「人助けで欠けた心を埋める」という人間性は今でも大好きだ。

 

 

話を戻そう。なぜ仮面ライダー剣のオチが自己犠牲ではなく自己責任なのか。

 

剣崎はいつまでも始の封印を躊躇った事によってダークローチの大群の発生を止められず世界に混乱を招いた。

橘や睦月など仲間はそんな剣崎の行動を信じて散っていった(死んではいない)

 

ぶっちゃけここだけなら剣崎は大戦犯である。滅びの片棒を担いだと言ってもいい。

 

そんな状況でどう考えても封印が最適解なのに「世界も友達も両方救いたい」というエゴを通したい。

 

はっきり言ってワガママも大概である。

 

しかし剣崎は今まで他人のためにずっと戦ってきた。人助けで満たされる心もあったとはいえ、それでも誰かのためであって自分のためではない。

 

だから剣崎は「始も世界も救う」というある種のご褒美くらい貰ってもバチは当たらないだろう。

 

だがそれも無償というわけにもいかないので、剣崎は大きな対価を支払うことになる。

それがジョーカー化(=日常生活を捨て悠久の生き地獄を味わう)である。

そして救った友と二度と会うこともない。

 

そして、これは絶対に罰ではない。

剣崎が自分から支払った対価である。

 

これは諦めでも妥協でもなく「剣崎にとっての最適解」なのでそれが許されない世界の運命に抵抗し続ける。


「封印しろ」はあくまで客観的な最適解でしかなく、剣崎はいつか必ず運命に勝ち帰ってくる前提で皆のもとから去ったのである。

 

最後の戦いで始は自ら封印されるために

「俺とお前は戦うことでしか分かり合えない」と絶望的な現実を受け入れようとするが、

剣崎は「俺は戦わない」「戦う相手はお前ではなくこの世界の運命だ」と。

「そして勝ってみせる」とまで言っている。

 

 

剣崎の本当の戦いは始まったばかりだ。

 

剣崎は今でも運命と戦っている。

いつか完全勝利し皆の元へ帰る日のために。


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